ヴラド・ドラキュラってどんな人物?
2014/11/01
ヴラド・ドラキュラは名前を見たらなんとなく察する方も多いと思いますが、あのドラキュラの元になった人物です。
ドラキュラのモデルになった人物なので怖そうなイメージがありますが実はトルコ軍と戦ったことによって英雄視されていたりもします。
今回はそんなヴラド・ドラキュラの紹介です。
この偉そうな肖像画の人物がヴラド・ドラキュラことウラド3世(ヴラド・ツェペシュ)です。
ワラキア公爵だったので偉そうなのは当たり前ですが、それまでに色々な苦労があったらしいです。
ウラド3世の生涯
ヴラド3世は1431年(1430年説有)11月10日にトランシルヴァニア地方のシギショアラでヴラド2世の次男として生まれました。次男ということは長男がいますがそっちが後を継がなかったのにはわけがあります。
1447年、父親のヴラド2世および長男のミルチャが暗殺されました。なので長男が後を継いでなかったんですね。生きていたらこっちが恐らく跡取りになっていたでしょう。
この時のヴラド3世はというと弟のラドゥ(美男子だったらしい)と一緒ににオスマン帝国の人質となっています。
1456年にハンガリーを無視して独立を果たそうとするヴラディスラフを疎んじたフニャディ・ヤーノシュの支援の下でウラド3世はワラキア公に即位しました。この時、ウラド3世は25歳です。
1459年になってヴラド3世はワラキア領内の大貴族を打倒して権力を掌握して中央集権化を進め、公の直轄軍を編成しました。
オスマン帝国がワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求すると、ヴラドはなんと使者を生きたまま串刺し刑にしました。オスマン帝国と何度か戦をしますが、ヴラド3世は敵国兵を串刺しにしていました。これが串刺し公の由来です。
同年、これに怒ったオスマン帝国当然ながらヴラドの弟ラドゥ(美男子)を支援して、ヴラドから離反した貴族達を糾合させてヴラドの追い落としになんと成功しています。ヴラドはなんとか逃げ切ってトランシルヴァニアに落ち延びましたが、そこで今度はハンガリー王マーチャーシュ1世にオスマン帝国に協力したという罪状で捕らえられ、幽閉の身となってしまいました。
ですが、ヴラド3世の待遇はそんなに悪くなかったらしいです。そこでハンガリー王の妹やハンガリー王本人と仲良くなったそうです。
恐らくヴラド3世もそこそこの美男子だったか話が上手かったんでしょうね。そのおかげでどうにか釈放されました。
ラドウが死んだ翌年の1476年にハンガリーの支援を受けて再度、ワラキア公に再び即位しますが、なんとわずか2ヶ月で反対派の貴族たちに暗殺されしまい、その生涯を閉じることになります。
ドラキュラの話は本人が生きてる頃からあったらしく事実なのか本人を皮肉った創作なのかよく分かってないそうです。
そんな話が出ているのを本人が知ってるなら流石に黙っている筈がないと思うのですがどうなのでしょうか?
まぁ、聞いていたとしても政務に追われてそれどころじなかったのかも知れませんが。
ヴラド3世と弟の話で何故か徳川家光とその弟の話を思い出しましたが昔は兄弟であっても敵同士になることが多かったんですね。
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